2003年5月号

「死のロード 〜30時間琵琶湖一周〜」

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昭和62年(1987年)10月・・・僕が19歳だった頃、京都の大学の近くに下宿しておりました。大学の夏期休暇が終わろうとしてましたが、この夏に旅行という旅行をろくにしていなかった僕は自転車(ママチャリ)で琵琶湖を一周してみようやないか?との希望が盛り上がっていました。

で、僕を含めた3人で琵琶湖一周旅行を敢行。僕自身夕方から夜中までのバイト(レンタルビデオ)をして帰ってきたところでしたが、「なんとかなるだろう」というわけのわからない自信でもって出発しました。

下宿から琵琶湖を一周してまた下宿に帰るまで総距離200キロ強。僕自身は自転車旅の経験はまるで無し。
・・・無謀???

出発点、京都市北区衣笠の俺が下宿してた、今は無き「弥生荘」。家賃12000円、四畳半。

うちの大学の蓬莱セミナーハウス。門に座ってタバコを吸う俺。
今津浜の朽ち果てた橋桁で戯れる。これから地獄を見るとも知らずに・・・

京都市北区を出発。夜中1時。

浜大津(琵琶湖)に到着。この辺までは快適そのもの。夜が明け、次第に明るくなってきました。

蓬莱、大学のセミナーハウスに到着。門に座って写真を撮るなど、まだまだ余裕。

今津 ここに到着するまで他の人は元気でしたが、次第に僕の足が痛くなってきました。だんだん僕は不安になってきました。・・・ほんとに大丈夫なのか???

奥琵琶湖、地獄のアップヒル。
見下ろせば今まで通った道筋が・・・

あー、もうだめ。こんなとこ漕いでなんか上れない。頂上までずっと押して歩きました。

奥琵琶湖 地獄のアップヒル。全て登り。とてもママチャリを漕いで登れるようなものじゃありません。他の人も既に自転車を押して登っている。・・・ここで費やした時間・体力の消費が後々とんでもないことになろうとは・・・頂上まで数時間を要す。

若い!俺、19歳の秋・・・痩せてるなぁ・・・
この頃はこの先の人生など何も考えてませんでした。

頂上、つづら尾展望台に到着(午後3時)。すでに体力の限界に達してました。僕の顔にはもう生気はありません。(笑)
ここでしばらくグッタリした後、今度は恐怖のダウンヒル。凄いスピードで下って行きます。ほとんどハングオン状態、でないとカーブが曲がれない!!!3時間もかかった登りがたったの30分で平地に到着。
わー、おもろかった!上りで苦しんだ分、下りでこんなに楽しいこと経験できるとは!

賤ヶ岳 ここにはトンネルがあります。人が通ってもいいんですが、ほとんど路肩が無い。路肩50センチくらいだろうか・・・自転車一台通れるスペースはありません。車道にはみ出し気味で通過するが、大型トラックが通るたびに風圧で車道に飛び出しそうになる。・・・ここまずいよ。気抜いたら死ぬぞ!?とお互いに声をかけつつなんとか通過完了。

賤ヶ岳トンネルを越えたとこ。・・・暗くなってきた・・・
どうすりゃいいんだよー・・・(泣)

もはやダメです・・・これ以上走れません・・・体力的にももう限界。精神的にも今のトンネルで磨り減ってました。しかしまだ終わっちゃいない。走らなきゃ帰れない。しかしもう夕方で暗くなりかけていて、誰もがもう走りたくは無くなっている。

「さぁ、もう京都まで数十キロのはずや。もう何時間か走れば帰れるんやからがんばろうや。」

僕は皆の気力を奮い起こそうと声をかけました。すると、前に京都までの距離を示す表示板があるのに気づき、見上げました。

ガーーーン・・・!!!
京都までまだあと100km!!!???まだ半分しか来てないってこと???

・・・今さっき声をかけたその少しばかりの希望が打ち砕かれるのを感じました。昨日の夜中出発してここまで走った距離でも100キロいくらあったはずです。18時間は経過してて、その距離でほとんど体力・気力を使い果たしてたわけで・・・

天は我らを見放した・・・
映画「八甲田山」より

脳裏にその言葉がよぎりました。皆放心状態。「・・・さ、行こか。」と、ノロノロと動き出す。完全に打ちのめされていたものの走らなきゃ帰れないんだという帰巣本能のようなものが働いたのだかなんだか・・・とにかく、走るしかないんだよ!

しかしそんな放心状態でまともに走れるわけがありません。前を走っている人を見るとやたらフラフラしている。「ああっ!」と思うと同時に道から外れ、ダートに入っていきます。しかしなんとか転倒は免れました。・・・「寝、寝てた・・・」危ないなぁ・・・やばいなぁ・・・
そしてふと天を見上げてみる。するとそこには満天の星空・・・「あ、天の川!綺麗やなぁ・・・」そんな自然の真っ只中にいる僕ら・・・どんなに苦しい状態だろうとあいも変わらず星々は美しくまたたいている・・・「オレらのことアホやなぁ?って思ってんのかな・・・」「アハハ・・・」皆の眼に涙が浮かんでいました。

長浜に辿り着きました。夜の8時。腹は減ってはいないんですが、「食おうや。食って体力つけるのが今最低限出来ることや。」・・・食べてる最中、誰も一言もしゃべりませんでした。

彦根のファミレスに入る。夜11時。メニューの注文以外誰もしゃべらない。僕自身、かなりやばい状態でした。何かきっかけがあったら今にも叫びだしてしまいそうな極限状態。これほどの神経衰弱を味わったことはありません。
最後の気力を振り絞って提案する。
「このままじゃやばい。精神的に限界にきてる。このまま走り続けたらマジで死ぬかもしれんぞ。どうやろ?残りの距離、帰れる希望が見えるまで走り続けへんか?何も考えんと。いちいち休憩してたら精神の方が先に崩壊してしまうで。」

・・・ここから奇跡の走りが始まるわけです。

後で聞いた話ですが、この後瀬田に着くまで誰も記憶が無いということです。僕も唯一残っている記憶といえば、京都までの距離表示板の数字がデジタルのように少しづつ減っていってたことだけ。
・・・長距離ランナーならではの
「ランニングハイ」。これが奇跡をもたらすことになろうとは。

瀬田・・・京都まであと少しというのがわかり、夜中中やってるトラッカー向けの食堂を発見したのでここで休憩。少しは話す気力が戻ってきていました。彦根・瀬田間の奇跡の走りについてお互いの健闘を称えあったり。

よくやったよオレら!!!







しかしこの後3人は
バラバラに分裂するのであった。

山科・・・ここで事件は起こりました。先頭を走っていた人が何を思ったのか、道からそれて山科区街に入っていきました。「おい!そっちちゃうぞ!」僕の声もむなしく凄いスピードで走っていきます。僕は途中までは追いかけて行ったのですが、全く追いつけません。あんな体力どこに残してたんや・・・とでも言うべき破滅的な走り。

山科区といえば京都市区です。それであまりの嬉しさに今までの緊張が弾けてしまったのでしょう。しかし山科は京都市街とは離れたところにあって、北区に帰るのはそっち方面ではありません。

仕方なく、僕は分岐点まで戻りました。するともう一人のメンバーもいません。しばらくそこにいましたが誰も帰ってくる様子もなし。
・・・ここから一人旅が始まるのであった。

しかしさすがの僕も東山区に入ったところで緊張の糸が切れました。右足が全く動かなくなったのです。その後北区の下宿まで左足だけで漕いで帰りました。

自分の部屋に帰ってこれた安心感から布団に崩れ落ちました。その1時間後、
ドタドタドタ!というけたたましい音と共に山科で別れたやつが入ってきたのです。

お前!俺をハメたな!!!

はー?何言うとんねん!お前が勝手に走って行ったんやないか!俺しばらく追いかけたけど追いつけんかってんぞ!結局皆バラバラになって一人で帰ってきてんぞ!」「そ、そうなんか?」

全く・・・皆精神が病んでしまったようです。そういう時はわけのわからない行動を起こすものです。僕自身は彦根にいた時が一番苦しかったかな。叫びだしそうになったもんな。

山科で先頭を走っていた僕らが勝手に曲がって行った後、取り残されたもう一人の人は「そっちちゃうのに・・・ま、いっか(笑)」 と、一人でさっさと家に帰っていったそうです。
3人の強固?なチームワークは一周寸前になってバラバラになってしまいました。

30時間かかりました。寝ずに。しかし僕だけは起きていたのは40時間くらいで、出発する前に立ちっぱなしのバイトだってやってるんだよな・・・

でもこの時の経験が僕の精神力を成長させたと思うし、絶大な体験になったと思います。
どん底の状態に追い込まれた時、どう行動するか。その緊張が解かれた時、いかなる行動に走るか。・・・なかなか興味深いものです。(笑)

・・・誰か僕と同じ条件でやってみたいと思われる方がいたら是非やってみてください。限りなく死に近づけますよ。(笑)